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俺の憧れる存在

スナフキンの名言

 それが、ムーミンに出演しているスナフキンだ。
 見た目も確かに格好良いが、彼の魅力は別にある。

 それは根っからの孤独主義者だということさ。

 かくいう俺自身も孤独=いつでも一人がデフォルトな男なので、単純に憧れというよりも尊敬に近い。
 現代社会(特に日本)では俺のように常に一人でいる者は蔑まれる対象でしかないだろう。
 そんなことはない? 考えてみてくれ。現代人が必要以上に他者との繋がりを強調したがるその姿勢は、孤独が耐えられない、恥ずべき状態だと暗に語っているからじゃないか。
 良く聞く言葉に、人は一人では生きていけないがある。
 確かに世界で一人きりだと水道も電気もガスも流れてこないために、俺たちの暮らしはひどいものになるだろう。
 だが、ドラえもんの独裁スイッチでもない限りは世界に一人きりなどという状態はあり得ない。
 簡単にいえば、一人でも生きていけるんだ。だって、俺が寿命も全うする期間に人類が滅亡することなどありえないのだから。万が一、そんなことが起こりうるのならば俺は手を叩いて歓喜しよう。例え自分以外の人間が全て滅びてしまったとしても、その世界でしか出来ない生き方が必ずあるんだよ。
 それから、人は一人では生きられないんだと馬鹿のように喚く者に言いたい。

 「お前は一度でも一人で生きようとしたことがあるのか?」

 少し脱線するが、日本――いや、世界では他者の生命を無闇に奪ってはならないという法が張り巡っている。
 それは至極当然のことであり、故に破れば非難され、罰が与えられる。
 だが俺は、他者を殺してはならない、この言葉を言っていいのは、実際に誰かを殺して罰を受けた者だけだと考えている。
 実際に殺人を犯して贖罪を全うした存在が口にする言葉は重みが違うからだ。
 同様に、一人で生きていけないと口にしていいのは、そうしようと努力した者だけだ。
 常に集団に紛れて生きてきた臆病者どもには、これを口にする資格はない。
 精々、社会や友達(笑)に依存しながら凡庸な人生を送ればいいさ。

 で、話はスナフキンに戻る。
 文頭に記載したリンクには、彼の口にした言葉が数多く羅列している、
 そのどれもが詩的であり、尚かつ、心に染み渡る深い意味を内包しているものばかりだ。
 中でも、俺自身が特に気に入っている3つの言葉を挙げておこう。

 『人の目なんか気にしないで、思うとおりに暮らしていればいいのさ』

 まさに天衣無縫。今の日本にはない最高の生き方だと思う。俺もこうなれるように努力しよう。


 『何でも自分のものにして持って帰ろうとすると難しいものなんだよ。

  ぼくは見るだけにしてるんだ。

  そして立ち去るときにはそれを頭の中へしまっておくのさ。

  そのほうがかばんをうんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね』

 深い言葉だ・・・・・・。
 非常に綺麗な景色を見つけたとしても、その光景を写真に納めたり、くだらないSNSに載せたりするのではなく、自らの頭の中だけにしまっておく。具体的に言えばそういうことだろうか?
 ただ確実に言えることは、欲深き事は罪になる。


 『自分できれいだと思うものは、 なんでもぼくのものさ。

  その気になれば、 世界中でもね』

 先述した言葉と合わせると抜群の相性を誇る。
 自分で見て頭に記憶したものは、その全てが自身のもの。
 俺も良い場所やものを見つけた時は、誰にも教えず自分だけのものにしたいと考える男だ。
 対して、世の中の人間たちは、素晴らしいものは他者と共有するという考えを持っているだろう。
 それが間違っているとは思わない。けれども、俺はそんなことはしない。
 人間以外の独占欲が大きい男だからだ。


 以上に挙げた言葉以外にもリンク先には素晴らしいものが幾つも記載されている。
 何か不快な出来事があってイライラしたり、くじけそうになったとき、俺は彼の言葉を思い出し、決して歩みを止めることはないだろう。

 ありがとう・・・・・・スナフキン。
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【懐かしの遊びシリーズ①】缶蹴り

 今日は何の意味もなく缶蹴りについて考察したいと思う。
 まず、缶蹴りとは一体何なのか? 敢えて文字に起こしてみようと考えた。


缶蹴り:アウトドアでの遊び。プレイするには複数人が必要である。鬼を一人(任意)選出し、空き缶を一つ用意する。他の者は鬼が数を数えている間(何秒間かは事前に相談すべし)に身を潜めておくこと。全員が隠れ終わったら鬼は行動を開始する。隠れているプレイヤーを見つけ出し、缶の置き場所まで疾走した後、見つけた者の名を宣言して缶に自身の脚を乗せる。これでそのプレイヤーは失格となる。だが、鬼が缶から離れている隙に他のプレイヤーがその缶を蹴り飛ばすと、失格となったプレイヤーは解放扱いとなり、鬼は敗北する。対して、鬼がプレイヤー全員を見つけ出した場合、その中から新たな鬼を選出してゲームを続行する。


 簡単にルールを記述するとこんなところだろうか?
 よく似た遊びの例にかくれんぼが存在するが、缶蹴りにはかくれんぼにはないスリルが存在する。それが、

 隠者が勝利するためには缶を蹴りに行かなければならない

 ということであろう。
 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とは良く言ったもので、安全な所に身を潜めているだけでは勝利はない。
 他力本願で他の誰かが蹴ってくれるのを期待するか、自らがやらねばと危険を冒すのか。
 この緊張感が堪らないのだ。
 無論、鬼に関しても同様のことが言える。蹴られるのが嫌だからといってその場に居続けては誰も捕まえることができず、ゲームそのものが進行できなくなるため、この辺りは各自でルールを決定すべきであろう。

 ここで、何故このようなことを記述しているのかを説明したい。
 俺はふとこの遊びを現実の犯罪に当てはめて考えてみた。するとこうなる。

・犯罪行為を行った者はみんな逃げ隠れをする
・捕まってしまえば警察にぶちこまれる
・だが、ある一定の条件を満たせば(缶を蹴り飛ばせば)捕まっている人々も晴れて自由となる

 かなり滅茶苦茶なことを考えているようだが、こういう創作も何かと面白いかもしれない。
 どのような大罪を犯そうとも、一定の条件を達成すればお咎め無し。
 まぁ、某作家が既にネタにしていそうな感じだが少しは考えてみようかな。

日記を書いていこうと思う

 久しぶりにブログを書いてみる。
 本来ならば、モンスターハンター3GやPSO2などのゲームについてたくさんの記事があったが、
 随分前のことなので全てを消滅させ、心機一転というわけだ。
 
 最近になって何故かミニ四駆を購入することが多くなった。
 あのフォルム、組み立てる時のワクワク感、改造の楽しみ(これはまちまちだが)といった、俺が小学生だった頃とまったく変わらない面白さ。それを今になって痛感している。やはり、本当に素晴らしいものというのはどれだけ歳月が流れ、時代の進み方が変化していこうとも変わることはない。
 関係なく思えるかもしれないが、俺の芸術スタイルは「刹那」よりも「永遠」を重視する。正直、夏の風物詩の代表格である花火は確かに素晴らしいものだ。だが、そう感じるのはまさに一瞬で、次の瞬間には、
 「あー、すごかったな」
 これで終わってしまう。
 だからこそ俺は「永遠」なるものに果てのない美を感じる。それは決して朽ちることがなく、ミニ四駆で先述した通り、本当に素晴らしいものは確かな存在感と共に君臨する。
 例えこの国に住まう全ての人間が醜く腐り果てても、ミニ四駆は存在し続けていくのであろう。
 俺はアホだ。だからありもしない不老不死に憧れを抱いている。
 老けることに意味など無い。頭を使わない人間は、身体ばかり成長して中身はスカスカである。
 こんなことを書き綴っているこの瞬間も、何書いてるんだ俺は・・・・・・と常に自問自答している。
 次の記事では組み立てたミニ四駆の写真でも載せてみようか。

 最近は色々あってゲームをしていない。俺はゲームが大好きだ。
 特に、モンスターハンターとゼルダの伝説シリーズは、そのほとんどをプレイしている。世の中をエンジョイしている人々からしてみれば、いい歳して(俺は20代)ゲームなんてするなよ、という声も聞こえてきそうだが、俺はいずれ作家になる男(勝手に断言)なので、ゲームは頭の栄養剤になる。
 モンハン4、神々のトライフォース2、この2作品は例え生活費を削ってでも手に入れてみせる。
 せっかくだからネット通信で誰かとモンハンやってみたい、今日この頃だった。
プロフィール

Yuki

Author:Yuki
ゲーム大好き
戦女神・モンハンが特に好き
マイペース最高

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